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デパス時々メンソール

死ぬまでただ生きている

とある宗教団体の活動内容

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こんばんは、皆さんのヘヴィポエマーことゆあたりです。

 

今回は、おそらく多くの誤解と多くのバッシングを受ける可能性のある話を綴ります。

 

 

 

日本人はその殆どが、無宗教であり、しかしながら宗教的行事に意味合いを別として参加したがります。元日は初詣、2月は豆まきやバレンタイン、イースター、3月は雛祭り、お盆やお彼岸、ハロウィンにクリスマス。また、地域の独特のお祭なんかにも参加しますね。氏神の氏子であり、その所属する寺の宗派の檀家。

 

 といった具合に、非常に柔軟性の高い日本人ですが、その多くは「仏教」に触れる機会が多いのではないでしょうか。

 

教えは同じなのに、することが違う宗教

他の宗教はともかくとして、本記事では我が家の宗教事情について綴ります。

 

 

我が家には仏壇が2つあります。

そのうちの1つは「浄土真宗のもの」です。もう1つは「日蓮系新興宗教団体のもの」です。父方と母方でわけられているのですが、これは僕が誕生する以前からの非常にややこしい話なのでわかりやすく説明いたします。

 

■父方

浄土真宗の家系

 

■母方

元創*学会から抜けた先に入会した日蓮系新興宗教の団体所属

 

父方の家に嫁いできた母は、おそらく壮絶なまでにその新興宗教の信仰についてバッシングを受けたと予想されます。事実、2つ目の仏壇はおおっぴらに安置しているわけでもないので、お察しの通り公にできないものなのです。

 

しかし、ここで幼ながらにも疑問がわいてくるわけです。

 

「なぜ、同じ先祖を供養をするという目的を掲げているにも関わらず対立するのか」

 

 

元来、宗派の違うものが同じ場所にいるとまぁ喧嘩はしますね。目的は一緒なのですが、過程が違うのです。例えば経文。「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」。ここからもうすでに違うのです。もともとは仏教はインド発祥で中国から渡来した宗教なのですが、ここまで違うと信仰しているもの同士の対立は避けて通れません。

 

かという僕はすべての宗教を知的好奇心という名の興味本位で聞くことがあるので、ぶっちゃけどうでもいいわけなんですよ。信じるものは救われる?クソでも食ってろ南無〜♪と、そこまでは暴言は吐いたつもりはありませんが、日本では「信仰の自由」というものがあります。

 

そして宗教団体の非課税についても首を傾げているわけです。

 

とある宗教団体は独自が発行している新聞の印刷を他の印刷会社に依頼し、癒着することで広告をだしたり、タレントを使って安心感を生み出すなど、まるでこれはマーケティングです。

 

それはともかく、宗教ってそもそもそういうものなんでしょうか?どこかに所属しないと、極楽浄土ならびに天国にはいけないものなのでしょうか?

 

 

なぜ、はっきりそれがまかり通ってるか。それは心の弱みにつけこんで巣食う(救う)からです。

 

真に、どの宗教別け隔てなく、信仰するならば金銭は発生しません。

 

 

 

しかし、実際に宗教によってメンタルの安寧を手に入れ、且つ精神の集中力を加速させている現状においては、自由の名のもとで必要なひとには必要でしょう。

 

問題なのは、自信が信仰している宗教を他人に半強制的に勧めることです。

 

押し付けと地獄という名の恐怖政治

過去、僕は幼少期にその日蓮系新興宗教の活動を親の勧めでしておりました。

眠い目をこすり、読経するのです。浄土真宗を進行する祖父母に聞こえないように小さい声で。これは異常ではないでしょうか。

 

そしてある日のことです。

 

月に1回、支部に連れて行かされ、支部に所属するひとたち全員と供養のための読経をするわけなのですが、1年に1回「聖地」と呼ばれる本部ではないのですが、修行場のある施設に泊りがけで連れて行かされたのです。

 

親の刷り込みとは怖いものです。これは良くてこれはだめだというものを一方的に信じ込んでしまうのですから。

 

 

聖地では、早朝から置き、長い読経を済ませてから朝ごはんを食べ、また読経をします。

 

他に創設者の墓へ聖地に参加している宗教団体のメンバー全員、およそ1000人は下らないでしょうか、参拝します。そして会長も登場し、大ホールで全員正座をし、読経をするのです。そして、スピーチが始まります。

 

「私は◯◯に入会し、読経を続けることで◯◯になることができました。これも◯◯のおかげです!!!」

 

アホか(ヾノ・∀・`)

 

ちなみにその宗教は事あるごとに信仰のおかげだとか、読経(これを修行と呼ぶ場合もある)をすることで、病気が緩和・治癒、受験に合格、仕事もうまくいくなど、まったく論理的でない神秘的(笑)なことばかりを例に挙げられ、僕は中学生のときに脱会の意思を伝え、脱会しました。(おそらく名簿ではまだ在籍扱いでしょうが、宗教などでは、脱会の意思を伝えた時点で脱会が成立します。)

 

 

世の中、助け舟をお金とすることもあるでしょう。

また、人とのコミュニケーションによって怒り・悲しみを緩和することもできるでしょう。

読経をすることで煩悩を断ち、心を平穏に導くこともできるでしょう。

水子供養や、亡くなった先祖供養も、蔑ろにすべきではないでしょう。

 

だけど、読経をすれば人生すべてうまくいくなら、なぜ信仰している家族である僕はまだ適応障害であり、父も病気を患い、母も大病を患い、兄は引きこもるのでしょうか。

 

人間の行動力のエンジンの補助にはなるでしょうが、エンジンには成り代われない。

 

これは、僕が飲んでいる向精神薬抗不安薬と同じことです。

 

 

 

仏を使い、創設者を祀り、先祖を供養することを重きにしている団体の幹部が

 

裏金があると報道されたのでは、すべての綺麗事も嘘っぱちに聞こえてしまいますね。

 

 

宗教は補助輪

自分で決めることのできない人間は多くいますが、宗教にすべてを委ねている人間を助けることはできるのでしょうか?自分を救うのはいつだって自分だと僕は誰かに言われました。なぜなら、自分の人生は1回しか体験できないのだから。生まれ変わったのなら、自分はもう「自分」ではなく「他人」です。

 

読経をするということ

これはよくあることなんですが、読経している経文、理解しているひとってどれくらいいるんでしょうか?現代語訳した言葉に直したほうがいいと個人的に思いますよ。呪文はともかくとして。だって、意味わからず「音」を発声していることに何の意味があるのですか?仏壇の前で録音した音声を流すのと同義ですよ

 

 

 

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